今日、何をした?

その日にしたことを書きます。

道尾秀介『シャドウ』を読んだ

読者視点のキャラクターが度々移り変わる。ある時は妻を失った夫、ある時はその息子、またある時は息子の友人という風にだ。そうすることでさまざまな事実を取り上げることが可能になり、それを徐々に読書へ伝えられる。

 

だが、それは読者の推理を手助けするものではなく、むしろミスリードを誘うものであった。読み終わってから気づいたが、作中の客観的事実を繋ぎ合わせていっても物語の真相には辿り着かない。何しろ、結末で初めて登場する事実がいくつかあり、過程では描写が省かれているからだ。

 

ぼくは意気揚々と推理を重ねてゆき、まず間違いないだろうと確信を持てていた部分もあった。だが、それはクライマックスであっけなくひっくり返されてしまった。面白い展開に驚き、嬉しかった気持ちもあったが、「ぼくにはここまでのものは書けないな」と思ってしまい、すごく悔しかった。そのせいで、今日は1日作業にあまり集中できず、ブログや、小説、シナリオ、物語に関わるものは全て手につかなくなってしまっていた。

 

でも、『シャドウ』のどこが素晴らしかったのか、それがどのように作られていたのか考えてみたら、思ったよりも分からないものではなかった。真似できるかと言われたら、まともに文章を書けない今のぼくでは難しい。だが、いつの日か追いつけるかもしれないと思った。

 

では、この作品のどこが素晴らしかったのか。

それは伏線の張り方、読者に恐怖と憶測を生む表現の2つだと思う。

 

伏線は、不用意に張ってしまうと回収する前に読者に展開がバレてしまう。だから、バレないように工夫をして張りめぐらせる必要がある。それが道尾さんは上手だった。ごく自然と作中に伏線が登場して、思わずそれを読み飛ばしてしまいそうになった。また、仮に伏線に気づかれたとしても問題ないようストーリーを組み立てているのがすごいと思った。単純に伏線を繋ぎ合わせても、予想される結末と本物は全く異なっている。それが読中の臨場感と、読後の驚きに繋がり、この本の面白さを生み出していると思った。

 

道尾さんは、これを作るために前述のように意図的に事実を省いていた。また、話を区切ったり、あえて表現を分かりにくいものにしたりすることで読者の誤解を誘っていた。

例えば、作中で自殺をするキャラクターが死ぬ直前に「私をあなたのところへ連れて行ってください」と言っている声を聞くのだが、ぼくはこれがキャラクターに向けて発された言葉であり、恐ろしい何かが語りかけているのだと思っていた。だが、事実はそうではなかった。ぼくは真っ白な顔のやせ細った人間を勝手に想像することで、1人で恐怖していたのだが、そうさせることができる描写に今は感服している。ぼくもそういうことができるようになりたい。

 

内容について知りたい人が読みに来てくれてたらごめんね!でも、これはほとんど内容を知らないまま読むべきだと思う。あらすじすら読まない方がいい!面白いことは絶対に保証するから、本当に読んでほしい!「内容を知らないで読もうと思えるか」と思うかもしれないけど、無駄な描写がほとんどないから、どこを抜粋してもネタバレになってしまうんだよ!単行本に記載されたあらすじすらネタバレになってたくらいなんだよ!だから、何も聞かず、ただ心を揺さぶられたい人は、本を手に取ってほしい!頼む!読んでくれ!

 

新しく好きになる作家さんはほぼいなかったのですが、この人は大好きになりました。これからもたくさん読んでいくと思います。好きなもの、人が増えるのはいつだって嬉しいね!